サボるというエモ
今週のお題「サボる」
サボタージュ。奇しくも今日の夕ご飯はコーンポタージュオンリーで、それも「サボりたい」という気持ちに由来するのだった。
本来熱心に取り組まなければならないことを、いい加減にこなしたり、そもそも取り組まなかったりすることを「サボる」という。「サボる」ことに対しての罪悪感が、昔は結構強かった。正当な理由がなければサボってはいけないと思っていた。正当な理由があるならサボったことにならんだろうとは思う。わかっているのだが、それでも人より楽をしていると、居心地が悪くなった。
最近はサボることにエモさを感じるようになった。サボることが苦手だという感情から、サボれる人を羨ましいと思い、ついに憧れにまで昇華させてしまった。
ただし、サボるにエモさが発動するには条件がある。その条件とは、誰かと一緒じゃなければならないということだ。
世界が終わる前に、あなたは何をするだろうか。他の人が様々な人に別れの挨拶をする中、僕は全てのサブスクに登録するだろう。横には限られた数の友人がいて、目の前にはサイズの物足りないテレビがある。満足のいく映画をじっくり選ぶこともせず、全部の映画を片っ端から観るつもりで、ア行から始めるのだ。きっと、アイアンマンとかその辺だろう。明日からも続きを見るつもりで、でも世界が終わる直前に見尽くせないことに気づいて、「見尽くせなかったね」とゲラゲラ笑って死んでいく。予定調和を予定調和に終わらせない。これが終わっていく世界に対するせめてもの反抗だ。
さよならを告げることをサボる。ありがとうを告げることをサボる。なにもかも消化不良に残したまま、世界が終わっていけばいい。
サボることに対する罪悪感。自分に批判的な人間はどうしても捨てきれないものだ。
でも共犯ならば、許しが得られる。不正を不正で許し合う不正な関係。
エモい。感情に訴えかける感覚。
「ルールを守ろうねと叫ぶ」ロックバンドの音楽を誰がエモいと思うだろうか。
いつだって学級委員はみんなの敵だったじゃないか。元学級委員が言うのだから間違いない。
私たちは、正しさから外れることに憧れを抱く。
サボることは、エモいのだ。
ということで、私は今日も自炊も片付けも洗濯も運動も勉強もサボっている。あーエモいエモい。はいはい、エモいエモい。